「日本文化・国土リゾート・福祉の極東国」

の根拠を示す

【最も現実味のある、

都市や地方の地域経済策、

それは哲学ではなく学問】

 

2018年12月25日 初版

 

 



         人類は生存するための原点に経済活動を行っている。その最も重要な再生産は子供であり子育てであり、その安定した繰り返しである。狩猟・牧畜・農耕のいずれかひとつを選択して集団や民族が形成されたといった歴史の事実は無い。大まかには略奪経済、封建領地経済、自由市場(資本主義)経済といった社会体制を経てはいるが、科学技術や社会運営技術(官僚組織とか民主主義制度など)に代表される文明Civilization進展とともに変化を繰り返してきた。その変化の根幹底流と言われるものが文化であり、そのツカミどころを理解しようと試みる目的で、人々は表面的には思考を分割し分野別学問蓄積の形態を用いている。当時の日本は、壬申の乱までは「倭」との国であった、その後に「日本」との対外名称となり、日本列島で550万人の人口だったと推測され、北海道や九州は日本人ばかりで統治してきた訳ではなかった。太平洋戦争敗戦直後はアメリカ軍を主力としたGHQに完全占領されていた。


        
第二次世界大戦後の、劇的な科学技術進展の主なものは、抗生物質、プラスチック、食料価格の半減にまつわるものである。社会運営技術の柱は、自由平等のための民主主義(一定程度の社会主義)であったし、後に基本的人権が加わった。とは言え経済活動は、貨幣を道具として自由の拡大を人々は求め、それは「モノやサービス(服務)」とを交換する方法である。貨幣蓄積増進の重要手段として「通貨」は用いられ、「通貨」とはそれ自身は経済価値のない貨幣や電子マネーなどの器材を用いることであったし、これも何千年と人類が用いてきた社会運営技術の方法や手段である。

 

         かといっても、「信用は貨幣を無用とする。(ジンメル)」のが人類共通文化であり、信用の存在するところに通貨の貸付が舞い込んでくるわけだ。その際に話題となっている概念が、幸せと満足である。近代以後の学問的解明で、「幸せとは=社会や集団の中で自由拡大を認識する状況(カント)」そして、「満足とは=様々な集団の内部で他人と比較して平均以上であると認識する状況(ダニエル・カーン)」であることが解ってきた。したがって、厚生を充足するだけでは、閉鎖された社会関係内部にあっては満足するかもしれないが、厚生自体も単なる幸せを追求するひとつの道具に過ぎず、自由をもたらす一助に過ぎないということだ。そして、「自由とは=生活全般にわたり、自らの希望する他人に対する特定の人間関係を、労働生産や消費その他の行為を通じて自由を感じ取ること。その場合には義務も自由として感じられる(ジンメル)」にまでに、文化についての共通解明を達したのである。すなわち、いくつかの選択肢から、そのいずれかを選ぶといった行為は自由では無い。

 

         人間にとって、文化を経ることで形成された概念が、意欲や活力を産むのである。ただし、活力とはいっても、アインシュタインが活力自体を解明し、それは単なる「エネルギー交換」だとの文明的科学技術的な発見をするまでの幻想概念に過ぎなかった。 したがって、活力の用語も次第に使われなくなる運命にあった概念の一つには変わりはなかった。

 

 

 『日本文化』でしか創れない、世界に価値ある固有商品

 

その、日本列島は、そういった文化の坩堝であることは間違いない。

 

        


        
昔に made in Japanと言われた概念だ。それは現在も廃れたわけではない。失われた日本の経済政策を始めてから、そういった文化の極限までの製品やサービスに含み込んだ商品づくりをしなくなっただけのことである。今日のような大手企業をはじめとして、手抜きとか怠慢、究極は、それを担っていた技術者や技能者を排除したり抑圧しているだけのことである。サービスの服務提供についても「おもてなし」といった薄っぺらい言葉に歪曲し中身を収斂させてしまっただけのことである。その原因は、サービスを提供する労働者の共感Empathy(共感作用&共感精度)の発揮を阻害するような人事や業務運営の制度を導入しているからに他ならない。


        
東京オリンピック不況の真っ只中に起きる金融ショックは避けられない。けれども、ICT産業革命の波に乗って、都市や地方の地域に基本的な経済拠点を移せばよい。移転が完了できた産業や業種は金融ショックには強く、貨幣資本一辺倒から生じる無駄とロスlossが、ひいては無理の頻発、的が外れた生産やサービス(服務)を激減させることができる。すなわち、金融ショック被害対策のための内部留保蓄積&生産拠点の海外移転とか、外資系巨大企業による吸収合併に否応なく陥る道とかから、企業は外れることが可能となる。貨幣資本とその器材である通貨に惑わされず、信用も含め地域に基盤を置く文化資本を大々的に導入活用することで、自由市場の要となる商品(製造品やサービス《服務》の提供)の質を高めることができる。それは、「よりよいものをより安く」といった、貨幣資本蓄積ならびに厚生ばかりに注目した今日の歪められた自由市場からの脱出でもある。


        
もとより商品とは、地域社会共同体の内部範囲から外に出回って、そこで固有の価値として交換されてこそ、初めて固有価値の活きる品物&サービス(服務)となる。官民を問わず統制経済とか事実上の配給制度に慣らされていると商品の固有価値は見えなくなる、なぜなら上乗せされた貨幣価値だけの一方的な通貨による評価に惑わされるからだ。もって、固有文化価値を扱う場合の産業育成に資するようにする固有文化価値とは、さまざまなアートArt作品を形成する芸術的素質は美しく良いもの且つ希望を感じるモノの法則性をつかみ、作品への法則的技巧を行い、より共感Empathy性の高い疑似的再現を実現することになる。

         その創造力、発明発見、創作にあっては、

       @その所見の表現が、

       A科学的計画を、

       B共感Empathy→共鳴させ、

       C他人に対して影響を与える。

ここがパフォーマンスperformance職人技と一線を異にする部分である。こういったところに、高齢化&少子化の負の財産を、真逆に転換させる道は開ける。

 

         その固有文化価値とは必ずしも、地方の伝統工芸とか伝統文化などとは同一の物ではない。言葉遣いだけで固有文化価値が実在するのであれば、伝統とか工芸とか自然とかの用語は、単なる通貨水増しを目的とした「共感Empathy」を呼び起こすための、口先の販売営業トークに他ならない。


  (固有文化価値、それを創るArt域労働とは) http://www.soumubu.jp/koyukachi.pdf


 
 
 ゆっくり過ごしたい、日本の『国土リゾート』

 



         日本文化に触れる、これを観光立国とかインバウンドだと表象だけ見て勘違いすれば、日本の観光産業150年余りの過去の経験と哲学を無視することとなり、個々の事業でも失敗をする。世界各国の成功している現象や表象の奥には、その成功地域の人たちが実際に「文化・リゾート」を体験・体現しているところにある。例えばフィンランドなどは、「フィンランド人の自由平等意識や福祉での日常生活を見てもらうこと」これ自体も観光の柱とし、「何もないフィンランド」をうたいあげ、その人の価値と態度が観光行動を規定するとして、いろいろな意味での富豪なり富裕となった人たちに焦点を当てている。成金は通貨を落としてはくれるが、長い目で見れば文化価値とか富を移転してくれるわけではないことを、フィンランドは200年以上の観光受入の歴史的教訓として持っている。


        
観光や旅游に希望を寄せて訪日する中国や台湾、韓国、フィリピン、ベトナムの人たちが驚くのは、日本の綺麗で清潔、衛生的生活や習慣、平安peace&安全だと言っている。彼彼女らはそれを日本人の日常の習慣から感じ取っているわけで、建物や施設の表象からではない。それを見て体験して観光気分を味わっている。だからリピートする、だから今後はリゾートに発展するのである。電動カートで移動するシニア高齢者、携帯用酸素ボンベを持って移動する高齢者、こういった姿にも驚いているのだ。


        
彼彼女らの価値と態度でもって、彼彼女らの昔の良き自国のレトロの主観や価値観を、日本で疑似体験・体現することを通して感じ取り、芸術と同じ認識や驚きとして希望につなげているのである。それはすなわち、懐石料理ではなく有名ラーメン店であり、とても新鮮な食材の料理一般であり、寺社仏閣の施設ではなく日本の平安peaceな普通の暮らしであり、商品代金の中抜きやネコババ防止目的のための中国電子決済とは異なる、紙幣のやり取りで品物交換をするレトロ平安な風景からでさえ、芸術と同じものを感じ取っているのである。芸術とはリフレッシュでは無い、朝に睡眠から覚めた時点などで味わう爽快な気持ちでは無い。芸術とは、新たな認識と驚きによって希望が与えられるものなのである。芸術を受け止めた場合、彼彼女らは何故か計画的にもなり、その人物なりに学問的にもなる。


         “Art
域作品とは本来の芸術作品なのだが、それは自由の拡大とか幸せを感じ取る対象となった自然な姿の、環境空間や他人との人間関係などの残存的記憶(価値観)が、日本での“Art域労働によって象徴的に増幅された、疑似体験・体現するモノやサービス(服務)から共感Empathy(共感作用&共感精度)をしている物事だと科学的にも発見され分析できることとなった。それは、

「絵」などによる色彩表現、

「音」による空間表現、

「詩」などの時系列表現

を、論理学では解明できない分野の方法を用いて共感Empathy(共感作用&共感精度)させているわけである。それは、日本各地域での“Art域労働によって演出された物事を“Art域作品と見做してしまう神秘的といった感覚や感情かもしれないし、古来中国に伝わる「蓬莱の島」といった錯覚なのかもしれない。

 

         でも彼彼女らの多くは、日本文化の“Art域作品の感性を教育されてはいない。日本育ちとは異なった共感作用&共感精度を持っている。成金意識の典型は、中国からの大型バスに乗り込んで観光に来る人、50年前にアメリカの豊かになった農業地域からの人たちが大型バスに乗って京都奈良の寺社仏閣に列を連ねて観光をしていた姿である。しかしそれは富豪なり富裕の日本各地でのリゾートへと変化をしていく。ただし、そういった演出を日本人だけが行なえるとは限らないから、念のため。


        
こういった現象や表象の奥にある文化資源が、日本国内に存在しているのである。歴史始まって以来、原発事故を除いて天災や戦争で以って消滅した都市は無い、それは文化による支えが死滅してしまい、人類の発展や営みが停止してしまったから崩壊したのが歴史事実である。橋や建物施設などの、ことに公共事業で建造されたインフラ施設等は、交換価値を持たない商品であって、建造した時点の投入通貨額が価値とみなされているが、これを“Art域労働によって使用価値を創造すれば、やはりこれもひとつの文化資本として生まれ変わる。そこでは高齢者の活躍が期待され、ここでも高齢化&少子化の負の財産を、真逆に変換して活用することで道は開ける。


  福祉は地域経済を支える優良事業になる!

 



イ)  間違いなく福祉の極東国への道は、地域・住民・女性が、地元の医療・福祉・介護産業に関わる度合いが高いことで、地域経済を支える。そればかりか、地域経済の労働力を確保するにも福祉や医療政策がとても有効である。(アメリカのサンタクララ郡=シリコンバレー)。特に子供への医療や保健の対策は働く両親の生活要望に応えるものだ。軽い感染症対応の保育所も支えになる。歯科医師の小学校常駐もデンマークでは当たりまえだ。

 

ロ)  産婦人科医から見た保育所の課題を提起している。(『医療4.0p.180
「子供が病気がちで仕事を休むことが増えたら、職場からの評価が下がり、配置換えになって給与が下がり、何よりやりがいを失った。結果、仕事を辞めた」とか、「子供がカゼのような軽い病気になったことが仕事を辞めるという結果につながる、日本の今の状況は絶対におかしい」その声をレポートしている。

 

ハ)  北欧諸国は既に地元密着の福祉・医療・介護を行ってきた。ヨーロッパも地元密着が基本である。日本のように広域展開をする介護業者は、欧州では不具合を生じさせる懸念があるとして.あえて認めていない。やはり、日本では都市や地方の地域経済(中学校区の単位)のイメージで組み直したうえで、有効な産業化を図ることが可能となる。

 

ニ)  地元や町内に根ざした福祉や医療は、先進各国の通例であるが、日本だけは異なった中央集権の統制経済の下にある。それが今後、地方自治や地域経済に根差す方策を念頭に置くだけでも、福祉事業や産業化の弊害は少なくなる。地方の高齢化市街地では、朝になると介護の「お迎え」軽四輪車で、右往左往とごった返している。都市部にしても、町内会に福祉事業の一部を依頼しようとしても糠に釘である。現行の金銭や点数でのコントロールばかりの、福祉・医療・介護事業形式は、ここでもやはり、無駄とロスlossが多く、無理が頻発し、的が外れざるをえない。中央集権の統制の思考パターンでは、軍隊式・学校の運動会式となり、高齢者を1カ所に直に集めて体操をさせたりで、それでは形だけとなり医療効果は出ない。

 

ホ)  フィンランドは、介護現場のアイディアから、老々介護での配偶者に手当を支給し、介護資格を取らせ、介護の質の向上と正規介護職の手間を軽減させている。さらに、フィンランドは介護資格の試験に事業経営があり、起業や融資を学ぶ、それがリアルに経営改善やアイディアにつながるとのことだ。

 

ヘ)  日本でも、老人が日常を過ごす縁側や南向き住居を町役場が提唱し、地元建築業者がリフォームすることで、健康悪化を防ぐ手立てをとっている、これは東北地域に多い。ならば日本の市街地での空き家対策とも絡んで、重要な市街地再開発となる。大都市近郊(自動車で2時間内)の、「子育て世代の2世帯目の土日住居」とか、「定年で郷里に帰る退職者住宅」などへの関連も広がる。

 

ト)  子供が高校を卒業すれば、町を出て行って帰って来ない。 これが、地方の地域経済の悩みで、民間も自治体も長期投資に二の足を踏んでいる。原因は雑多で法則性もなさそうにも見える。だが視点を変えて、地域経済の産業開発とともに、地域経済の支援との立ち位置で福祉・医療・介護事業を志向する。それは、

   @地域経済の産業、

     A雇用は細かくとも増大、

       B労働人口の増加、

         C出産子育て増加、

           D労働能力と人手は新産業を生む、といった

善循環を細い路ながらも実行することである。この先に、高校卒業後の地元離れ対策の見通しがつく。高度経済成長期に農村から都会に出たのは、就職と併せて高校や短大の学業希望のためである。そして、8割の子供は仕事が在り仲良い友達がいれば、都会で遊び終わったら郷里に帰ると考えられるからだ。

 

チ)  ……近々到来する日本国内の恐慌は、既に始まっているオリンピック不況の最中に来る。そこからでも、地域経済を支える医療・福祉・介護産業として組みなおすことは、逆転の発想として絶好のチャンスだととらえられる。

 

リ)  ……〜その結果、福祉は、日本の海外向け産業の柱であり、日本の福祉を視に来る観光現象の柱ともなる。介護労働者を安易に海外から輸入することは、本末転倒である。世界各国ともに、医療ツーリズムだけでは産業になり得ていない、それは旧社会主義国のような官営であろうが、激しい格差を抱えるインドのような民営であろうが、無駄な投資である事は未然に証明されている。



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